書き手側から受け手側へとライトノベルの主導権が移ったのではないか

ライトノベルが似かよって見える理由。 - Something Orange

今日は、上記のエントリーを受けて、思ったことを書いていきたい。記事の内容は、詳しくは見てもらう事にして、簡潔に説明すると、はじめは一部のスパイスであった「萌え」というものが今のライトノベルでは当然のように使わなくてはならなくなり、それが今のライトノベルを似たり寄ったりという印象を与える理由になっているということだ。


つまり、「萌え」というものによって今のライトノベルが縛られているという事なんだろうと思う。どんな作品でも、最低限表紙だけは「萌え」を意識したものにしなければならない現状ではその通りだと思う。もはや「萌え」なくしてライトノベルは存在しおえないという段階まできているのだろう。


これは、初めは書き手側から実行していた「萌え」という形での表現方法がいつの間にか受け手側である読者から「萌え」というものが求められるという変化が生まれたという事である。書き手が例え、「萌え」を完全に排除した作品を書こうと思っても、読者がそれを求めていない以上ライトノベルからは、出す事ができないそういったことが起こっているのだろう。

要するに、ライトノベルというものはいまや書き手側が受け手側に強く束縛されているものになったのだと僕は思う。今ではこれから作品を書き始めるという始まりの段階からすでに束縛が始まっている。それは、新人賞でも同じだろう。だから、独創的な作品も生まれない。そして、新人作家は違いが生み出せない以上ヒット作を出せずに沈んでいく。


だが、いまさら「萌え」というものを排除したところでもはや昔には戻れないと思う。それは、「萌え」があるのがライトノベルだと読み手が理解しているからだ。だから、「萌え」が必須という既存の枠でこれからも作品を出さなければならない状況はライトノベルが滅ぶまで永遠に続くだろう。



追伸
勿論、「萌え」という枠から外れた作品も出てくるだろうが、それはもはやライトノベルではないだろう。もう一つ作戦があるというならば、それはライトノベルという枠を消滅させ、さらに細分化したカテゴリを作り上げる事だろうと思う。
ライトノベルに属し、A1カテゴリに属するものとかさ。A1の中身は、萌えなし、言葉遣いはライトノベルに属すなどだ。どうだろうか。というかライトノベルという名前自体が適切ではないんだけどね。ぜんぜんライトじゃない作品も数多あるし。


補足
新人作家の所は、ちょっと強引な考えだと自分でも思う。けれど、現実問題としては、多くの新人作家たちの作品が「萌え」という事に縛られすぎているのは事実ではないだろうか。ありきたり、どこかで読んだような作品といわれることが新人作品では多いと思う。