会話文が多い俺修羅タイプの傾向性

前回の記事で今のライトノベルを地の文が少なく会話文が多い俺修羅タイプと従来からのライトノベル神メモタイプと分類した。

ライトノベルは2つに分けられる - Sa雪→書を読むこと

この記事を書いて気づいたことがある。それは、俺修羅タイプの作品には傾向があるということだ。まず、日常系。そして一人称。最後に学園モノ。*1この3つを満たしていることが多い。俺修羅も僕は友達が少ない生徒会の一存、どれもそうである。
なぜこの傾向があるのか考えてみると、俺修羅タイプを取るには地の文を少なくする必要があるがファンタジーや超能力物などでは世界観、能力の効果の説明などでどうしてもある程度のまとまった文章を書かなければならない。これが多すぎると説明だけで話が終わってしまうのだが、それは置いとく。会話文でそれらを説明するというのも単調かつ退屈な説明になりがちであり厳しいと言わざるおえない。一方、日常系かつ学園モノであれば私たちが知っている情報がそのまま使えるためそうした説明を省くことができる。そのため、会話文が非常に多いという構成が可能になっている。
一人称が多いのは主人公になりきって会話が書けるということだろうか。これについては推測してみたが自信がない。その他に俺修羅タイプはハーレム系の性質も持っている。

逆にこれらの要素を全て廃した俺修羅タイプの作品を読んでみたい気がしてきた。

*1:3つ全部というわけでは必ずしもなく日常系学園モノなどという2つの組み合わせもありうる