読みづらくても売れるライトノベルの話と繰り返されるイベント

『魔法科高校』へ観光に来られる皆様へ - WINDBIRD

Mizunotoriさんが、典型的ななろう作品と比較すると魔法科高校の劣等生が文章的な特徴から読みづらいといっている。自分としては若干驚きであった。多少世界観の説明描写が多かったり、補足的に()を用いて説明するという癖はあるものの、個人的には気にならないレベルだと考えていた。言われてみれば、なろう作品と比較すると確かにそうかもしれない。

魔法科よりかは、灼眼のシャナのほうが10倍くらい読みづらい。特殊な用語が多く、文章も堅い。

しかしどちらの作品も売れているのである。ただでさえ同じエンターテイメントとして対比対象となる事が多い漫画に比べて読むのにコストを払う小説が、さらに読みづらいというであれば避けられるのが当たり前ではないだろうか。

結局、エンターテイメント作品においては、その小説が読み手にとってある種の価値を提供してくれるかというのが重要であるということの証であると考える。ここでの価値というのは、面白いという感情を提供してくれる能力がある、読者をある種の興奮状態にさせる、思想的に、また共通の話題としてなどであり、多様な側面を持つ。読みづらいかどうかというのはそれよりははるかに劣る優先度であるということなのである。

魔法科高校の劣等生〈1〉入学編(上) (電撃文庫)

魔法科高校の劣等生〈1〉入学編(上) (電撃文庫)

灼眼のシャナ (電撃文庫)

灼眼のシャナ (電撃文庫)

Togetterの話

『魔法科高校の劣等生』への批判とライトノベルにおける女性キャラの扱いについて - Togetterまとめ

Togetterの方は、昔であればはあぁまたかという感じでスルーしただろうが、最近は天狗学派を支持しているので、少しだけ触れておく。文章の一部一部を取り出して、面白おかしく周囲の狭いコミニュティの仲間と笑って、バカにして楽しむという悪趣味であると思う (主観的)。そしてその結果をもって、ある種のジャンルの代表として解釈して、周りに向かって公表することは、誤解を含んだ理解を周囲に対して拡散するという恥ずべき行為であるし、自分自身にとってそれがひとつの正解であるように固定されてしまうので、褒められるべきではない。作者に情報が届くこともあるのだし。

形式的にあるいは文化的立場から物事を述べようとした時、それは茶化すとかいう上からの立場でやるべきではなくて、もっとまじめに慎重に考えをまとめるべきである。そして科学的過程を経てなされるべきである。サンプル数、作品の形式的なジャンル分けの問題がある。異ジャンルのことについて扱おうとする場合は、半年ROMっておけと言いたくなる。とにかくそういった下調べが知識不足による間違いを劇的に減らす。

繰り返される最近のラノベなどのライトノベルに対する正しさを欠いた発言

ライトノベルコミュニティの力が弱く間違いを含んだ発言を抑制できるほどの力を持っていないのが実情である。抑制する力というのは、倫理的、科学的なルールのようなことをさす。抑制力が本当に必要かどうかは別問題。

一方で直接的な攻撃力があるライトノベルについてそこまで詳しくないがサブカルチャー全般に親しみがあって積極的に発言する人達の対象になるかどうかは、場合による。

結局のところ

訂正を求めて発言者に対して説明を求めるというのは、直接的な手段であり有用であるが、周囲の観測者たちに恐怖を与えるという欠点がある。そのせいで、ライトノベルコミュニティに対して、所属している全員が怖い存在であり、ライトノベル界隈をまた支配しているという悪の存在であるという誤解が広がる可能性があることは、自由な発言をライトノベルの人気を維持していくための道具としていく上で大きなマイナスである。

こういうてきとうな発言をしないようにさせるには、ライトノベルに限った話ではなくそう教育することが必要である。ネットリテラシーと同じ次元のことである。その根底にあるのは、自分の意見を述べるときは、よく考えてから発言するというものだ。それができていない人間が多々見られることは、教育が不十分であるということの証なのだろう。

大学に行こう。あるいは勉強しましょう。

関連

ラノベはなぜ馬鹿にされるのかを考えることは大事だがそれよりも考えたいこと - ミグストラノート