僕がライトノベルの書評をめったに書かない理由について

この記事が存在するネット世界=バーチャル世界上にはどんな本であれ何らかの書評と呼ばれる物が存在する。それはもちろんライトノベルにおいてもそうである。新刊が発売すれば、フラゲした人から我先と自分の感想をこの世界に落としていく。それらは長さ、書き方においても様々なバリエーションがある。その多様性のある書評については、僕もかつてまとめている。


だが実際問題、僕はライトノベルの書評を書くのを非常に苦手としていて滅多に書くことがない。最近は感想というレベルですら書く気力が出てこない。一時は、書評を多く書くことでアクセス数を稼ごうとしていたときもあったのに大きな変化である。ではなぜ、ライトノベルの書評を書くことに対して進まない気分でいるのか先日ようやく理由が分かった。

それは、ライトノベルには作者の強く伝えたいメッセージ性というものが欠けている作品が多いからだ。僕の場合、その本を読んだことで受けた作者の強い主題(メッセージ)、構成に対してどんなことを感じたのかを書くことが多いがこれに当てはまる作品はライトノベルの場合、希有だ。最近書いた「GJ部」の書評というか分析は、滅多にない特徴のある構成について思ったことを連ねたわけであるし、個人的に満足できるレベルだと思っている「さくら荘のペットな彼女」及び「さくら荘のペットな彼女2」の書評では、主題だと思った天才と凡人という対照的な位置関係にある主人公とヒロインについて書いた。


けれど、ライトノベルに作者のメッセージ性を強く入れる必要があるとは思っていない。あくまでも、ライトノベルは面白ければいいと考えている。あくまでもエンターテイメントを追求した物、それがライトノベルだと思っているからだ。だから、メッセージ性を入れようとするがあまり面白くなくなるなど言語道断だ。読み終わってああ面白かった、感動した、悲しくなった、それでいいじゃないかと思う。そこで終わっても問題はないはずだ。そして自分の中でその楽しさを抱え込むのだ。


これが、僕がライトノベルの書評を書く気がしない理由の大部分。見所、要約を書いている書評は自分が出さなくてもいっぱいある。同じような物を自分があえて出さなくてもいいじゃないと躊躇してしまうし、書かなくて正解だと後で納得することが大半だ。自分にしか書けない物こそ書評として書くべきだし、それには是非とも語りたいという自分自身を熱狂させる作品であることが必須。そうではなくては凡庸な物で埋もれるだけ。


感受性が非常に高い人なら毎回どんなライトノベルを読んでもそういった気分になれるんだろうな。少し憧れてしまう。と言うわけで、僕が書評を書くのは自身にそれだけの衝撃を与えた作品であることの証明でもあるのだ。だから、久しぶりにそういった気分にさせてくれた「夜が運ばれてくるまでに」の書評は全力で書きたいと思う。


以上、ライトノベルの書評についての考えを述べた新刀無乃でした。これに同意出来るかどうかは個人差が大きいだろうなと思ってます。正解はないのですから。