ライトノベルなどにおける連続性について

GJ部◎ (ガガガ文庫)

GJ部◎ (ガガガ文庫)

ライトノベルの多くはストーリーがあって成立している。例えば何かしの事件や出来事が起きてそれを解決するために動くことがあげられる。起承転結の起承までは確実にあるといっていいと思う。

そして一冊の中でそれが成立することが多い。このような小さなストーリーが積み重なることでシリーズが成立する。積み上げ式を多くは取る。これは、キャラクターの成長を描き、読者の共感を得ることへ繋がっている。

一方でGJ部の場合は異なるように思える。四ページという短い話を連続することでキャラクターへの愛と知識は高まっていく。これも同じく積み上げ式といえるかもしれないが、受ける印象は異なる。前者のようにストーリーという大きなうねりのなかにいるのではなく、知識として知っているにすぎないということである。

しかしながらこれは書籍として読んだときに感じていることであって、アニメでは異なる印象をうけるだろう。前回のGJ部◎の記事でも書いたように、アニメでは挿絵というものは当然ながら存在しないからである。であるから、各エピソードが繋がりをもっているGJ部の場合、オリジナルエピソードをいれたりしながら上手く繋いであげればアニメでは違和感は感じなくなっているのだと思う。

GJ部◎感想 特に面白かった2つの理由 - Sa雪→書を読むこと


メディアの違いを理解せよとはよくいったもので、受け取り手にはそれぞれ違った印象が与えられる。漫画でも書籍でもドラマCDでもアニメでもね。そして書籍に限っても、様々なバリエーションがある。だからこそ面白い。


ストーリー重視と日常重視だと飽きられかたのバリエーションが異なる。
読み手を引きつけるためにイベントを起こしすぎることが前者であり、後者は、逆にありきたりすぎることで飽きられるのが後者である。とはいっても前者でも、ありきたりのイベントしか作れなくなることはよくあるので、可能性のひとつでしかないが。
なぜこんなことを書いたのかというと、完全なる日常を描いた作品は商業作品として成立しにくいからである。日常を追い求めれば、それは記録になる。何時に何があったなどである。いわば動画をみているようなもの。ただしそこにリアルとアンリアルは関わってこない。
四コマ小説を突き詰めると記録となるのではないだろうか。

出来事を正確に記録すると言うことは、無数のエピソードが産まれると言うことである。すると、そこに時間的狭間はなく連続性をもって存在する。なので、一時間おきの動き(時計をタイトルに付随するとか)を小説にすることで、四コマ小説であっても、違和感を完全になくすことができると考えられる。

それこそ年表みたいに、もっと大規模だと年代表かな。あれも人はどのような過程を経て今地上にいるということを実感させてくれるから理解できる。

そのような尺度がないと人は時に混乱を覚えるが、その混乱は決してマイナスだとは限らない。レンタルマギカ涼宮ハルヒの憂鬱の時系列シャッフルは混乱を与えたが、エンタメとして受け入れられている。


自分でも何を言っているか分からなくなってきたが連続性ということについてでした。